京都の紅葉~鷹峯~

CMを見ていたら行きたくなって、急に京都の紅葉を見に行くことになりました
この時期の週末はホテルの予約はムリだろうから日帰りでもいいや・・・と思ったのだけど、前日のしかも夜だったのに予約が取れたの
なんてラッキーなんでしょ
 
 
 
久々に新幹線の旅
私達はなかなか縁がないようで美しい富士山をみれる事が少ないんだけど、この日はとってもキレイな富士山が見れた
ありがとう
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京都では、紅葉ではなく人ごみを見るようなことは避けたかったから有名どころはやめました

地下鉄をバスを乗り継いで向かったのは「鷹峯」
京都市北区に位置するエリアで、辻斬りや追いはぎが出没するような場所でしたが、豊臣秀吉が外敵の侵入に備えて御土居を構築
御土居以北の約8、9万坪の原野を拝領して、本阿弥光悦が一族縁者を引き連れて移り住み、光悦を慕う芸術家や豪商も移り住んで京都の芸術・文化の一大拠点となったんだそうです
北陸方面から京都に魚介類を運搬するための重要な物流ルートの入り口でもあり、特に鯖を運搬していたことからが多かったことから「鯖街道」と呼ばれていたんだって
また、京の伝統野菜の名産地としても知られ、鷹峯とうがらし・鷹峯ねぎなど地名が付いた京野菜などが今もこの地で栽培されている
花札の8月の絵札でおなじみの「芒」は、この鷹峯の山を模したものとされている・・・などなど、この地の歴史を聞けば聞くほど面白い
本阿弥家が土地を幕府に返上してこの地を離れたことにより衰退して行ったそうですが、現在は山々に囲まれていて自然豊かなとても静かな場所だったわ
 
 
まずは、この地の歴史を語る上で欠かせない本阿弥光悦さんの住居跡でもある「光悦寺」
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細い参道の両脇から黄色に染まった木々が
散った葉は絨毯のようになって、一面黄色に染まっています
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参道の奥には真っ赤になった紅葉と、その奥にある竹林のコントラストを楽しむことも出来たよ
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「常照寺」
お寺の起源は1616年
当時は学問所として多くの僧が学ぶ場所であったことから学問寺としての歴史もあるんだけど、名妓として有名な吉野太夫ゆかりの寺でもあるの
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これは裏からみた状態なんだけど、この赤い門は「吉野の赤門」と呼ばれていて吉野太夫が私財を投じて寄進した山門
そんな縁と太夫の遺言から、この寺に葬られたんだって
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吉野太夫って誰と思ったんだけど、最初にお寺についての説明ビデオを見せてくださるので、とても参考になったの
江戸時代の初期、京の遊郭で天下の名妓とうたわれていたのが二代目吉野太夫
元々は武士の娘だったんだけど、7歳の時に父が亡くなり、訳あって六条三筋町の遊里「扇屋」に預けられることになった
14歳の若さで太夫の位について源氏名を「浮舟」としたが、遊郭の入口近くに咲く桜を見て詠んだ句から名を「吉野」にかえている
太夫は名前ではなく、遊女としての最上位の呼び名
容姿が美しいだけではなく、高い教養と書画・和歌・俳句・花道・聞香・太鼓・三味線など芸にも優れた人物でないと太夫にはなれませんでした
そんな才色兼備の吉野に思いを寄せ、通い続けた1人が旦那さんになる豪商で文化人の灰屋紹益
今回の旅で最初に行ったお寺、本阿弥光悦さんの甥っ子です
2人は次第に惹かれ合い身請けしようとする紹益の親の大反対にあい駆け落ちしたが、後に吉野に会った親は身請けを許している
この二人のロマンスは歌舞伎などでも演じられているんだそうですよ
吉野太夫は38歳という若さで病死しました
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境内の最も奥に建つ鬼子母神
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ほどよい間隔の竹林も美しかった
 
 

バスを途中下車して「高桐院」へ
大徳寺塔頭で、細川忠興とその夫人ガラシャをはじめ細川家を祀っているの
ここの参道は暫く立ちつくして見とれてしまったわ
50mほどある参道の両脇にある竹の手すりは、ここの敷地内の竹で作られていて毎年12月末に新しい物と取り替えているんだそうよ
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「楓の庭」と呼ばれる一面苔の中に楓のみで構成された庭園で一見とても簡素に見えたんだけど、その中央にある石灯籠の存在に気づいた時、やっと庭園の美しさが解りました
座る場所によって、随分イメージが変わる庭だったわ
本堂から庭園へ降りると、細川忠興ガラシャの墓とされる石灯籠があるんだけど、これは千利休が愛用した灯籠で利休が切腹の前に遺品として忠興に贈ったものなんですって
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